本の精選について

世の中には本が溢れている。
本屋に行けば毎月毎月新刊が発売され、平積みする棚に所狭しと並べられている。
大衆受けするのは、いかにもそうだと思わせる本や平易で理解しやすくセンセーショナルな
表題をつけた売る為だけの本が多い。ビジネス書といったたぐいのものは、
とくにそういった指向が強いと感じる。

それの習慣、行動パターン、ノートの取り方、財布の選び方等々。。。
そんなことで年収があがったりするのだったら、本など書かずにとっくに実践してるんじゃないの?と思ったりもする。

ショーペンハウアーは「読書について」の中でこう書いた

へロトドスによるとペルシアの大王クセルクセスは、雲霞のような大軍を眺めながら涙した。
百年後には、この全軍のだれ一人として生き残ってはいまいと思ったからである。
分厚い図書目録を眺めながら泣きたい気持ちに襲われない者がいるだろうか。
だれでも10年経てば一冊も生き残ってはいまいという思いに打たれるはずである。

今本屋に平積みされてある新刊が10年後何冊生き残っているだろうか。ほとんどが絶版になってしまうだろう。
刺激的な本は飽きられるのも早い。
ただそんな本が売れているのも事実ではある。

エッカーマンの「ゲーテとの対話」では、ゲーテが一流の価値について言及した際に

人間は自分でできるものだけを認め称賛するものだ。ある人は二流程度のもので生計を立てているので、
彼らは詭計を弄して、文学の中で確かに非難できるものを非難し自分が称賛する二流程度のものを
ますます立派に見せようとする
と語っている。

一生は短く、本を読む時間は限られている。
今から死ぬまでにいったい何冊の本が読めるのか。
世の中にあふれかえった本の中で本当に価値のある本を選ぶだけでも大変な作業であると思われる。

岩波文庫の新渡戸稲造論集では本の選択についてこんな事が書いてあった。

読書するに良いものを選択せよという事を我輩はここで述べたい。本はどんな本でも、ただ読みさえすればよいと
思われた時代は元はあったろう。
「書いてあるものは無駄のないものである。何でもよいから見ておれ。」
子供には言わなかったが大人には「春画でもよいから版になっているものは見ておけ」とこう言ったものである。
そんなものは誰でも奨めなくても読むのだろうが、とにかく今日のように盛んになるまでは、少なくとも平均以上を越えたものでなければ、版にならなかったものであろう。であるから、ぼんやりしているよりは何でもよいから読んでおれという言葉は昔はあるいは当たっていたかもしれぬが、今日は読まない方がよいだろうと思われる本が非常に多いだろうと思われる。
殊に近頃のようにその中にも日本のようにヨーロッパの書物がどしどしはいってくる一方に日本の本も数はちょっと忘れたけれども、世界において決して劣らないほど出版物が行われている。とても読み切れるものではない。
精選を要する。この時に当ってどういう書物を読むかということだけでも一つの専門学になる。
良書を選ぶ一つの指針としては、長い間生き残ってきた書物、古典を読むというのも一つの方法である。

古典と呼ばれるものが全て良いかどうかは別にして、難解な本も多い。
読解力というのは、平易な文章を読むことではなくとっつきにくい難書をよむことで成長する。
そのような本に取り組むことにより、読む力や思想の成長が自覚できるのではないだろうか。

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