アンガージュマン 社会参加するということについて

ジャン=ポール・サルトルは一般的な哲学者像である世捨て人のようなイメージとは異なり、自分の思想を雑誌や時事問題に対する発言、デモへの参加といった形で社会に密接に関わった人物である。このような生き方についてサルトル自身はアンガージュマンという言葉で表現した。Jean-Paul_Sartre_FP「engagement」は、自分を拘束すること、自分を巻き込むこと、自分を参加させること。という意味がある。他者と関わり合いを持つという事は、サルトルが提唱した実存主義と深い関係があるように思える。
人間は、そもそも生まれる事に目的はなく、ただ存在するだけである。自らの存在理由は自らで決定することはできず、他人との関わり合いの中から生まれてくるものである。

ナイフは果物などを切る道具にも使えるが、ある人にとっては何かを削る道具としても意味づけられる。また一部の人間にとっては凶器にもなりえる。使う人によって存在する意味が与えられる。

自分が生きる意味や理由は他人から与えられるものという事から、アンガージュマンの目的が見えてくるのではないだろうか。
社会参加するということは、片方の立場に立つということになり、対立が生まれる。ある意見に対し、異議申し立てを行うことになる。
サルトルは、「異議申し立て」をしない人間は学ぶ価値がないとすら語ったらしい。

エッカーマンの「ゲーテとの対話」で哲学に言及した際、以下のようなことが書いてあった。

「(哲学の教育では)マホメット教徒は、どんなことでも、その反対が言えないことは存在しないということを最初に教える。いかなる主張が出されても反対の意見を見つけて発表させることを若者たちの課題にすることで、その精神を鍛え上げるのだ。こうすれば、考えることにも話すことにも十分熟達を見るに決まっているからだ。ところが、提出されたそれぞれの命題についてその反対が主張された後にはいったい二つのうちどちらが本当なのかといった疑いが生ずる。しかしいつまでも疑い続けるわけにはいかないので疑いは精神を励ましてさらに詳しい研究と吟味に向かわせ、これが完全な方法でなされるとそこから確信が生まれるのであり、このことが目的なのであって、そこにおいて人間は完全な安心の境地を見出すのだ。」
エッカーマンは、これに対してギリシャ人の悲劇を例に出し、
「事件(物語)を進行させる本質的なものは、あくまで矛盾対立である。」
と述べている。

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